御祭神
荷田東丸大人

祭神荷田東丸(春満)大人(本名 羽倉信盛)は寛文9年(1669年)正月3日、この地に誕生され、幼少期のこ頃から花道、
書道に秀え、長じては国史、律令、古文古歌さらに諸家の記伝に至るまで独学で博く通じ殊に内容の乏しい形式的な
堂上歌道を打破して、自由な本来の姿に立ち返るよう努められました。
元禄10年妙法院宮に歌道の師として進講されましたが、当時幕府が朱子学を政治の指導理念の中心に据えていた為
学問を志す者が極端に漢字を尊ぶ状況をみて日本固有の文化が滅びてしまうという危機感を感じ日本書紀、万葉集など
古典研究を通じ日本固有の文化や精神を明らかにしました。
享保8年古学普及の為に倭学校を創建されようとしましたが病に倒れ元文元年7月2日、68歳をもってその生涯を
終えられました。
東丸大人は臨終に際して研究が未完のものは全て燃やすよう命じましたが、今なお神紙道、日本史、律令、格式、歌学
および語釈に関する貴重な遺著ならびに遺墨が多く残っています。
このような東丸大人の学徳を偲ぶ有志の人々が相寄って、荷田旧邸の一部であるこの地に社殿を創建し、以来、
「学徳守護」の神様として広く崇敬されることになりました。
荷田社・春葉殿

祭神荷田東丸大人の遠祖荷田殷、嗣、早、龍の四霊を
合祀しています。和銅4年稲荷山三ケ峰鎮座の際、
最初に奉仕したのが雄略天皇の皇子盤城王の裔である荷田殷で
あって以来、荷田家は代々稲荷社正官御殿預職を務めましたが、
この祖神のうち龍は高徳で学問をよくし弘法大師とも親交があり、龍頭太と称せられました。
弘仁8年12月13日帰天のとき電鳴風雨はげしく、梅花を悉き裏向きに降らし、黒雲を呼び、あたかも龍神昇天の如くであったと
伝えられています。それを記念して荷田家の家紋は一重梅花を
用いています。